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The Full Story of

​PAKCHI WORLD

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The full story of pakch world
​PAKCHI WORLDのビジョンをより深くお伝えするため、パクチー有以子の半生における重要なポイントをひも解くことで
ここにいたるまでの歴史を明らかにします。

Vol.1

『正解』を
追い求める子

Vol.2

海外に行くと
楽になれる?

Vol.3

そして
誰もいなくなった

Vol.4

表現することは
生きること

Vol.5

感じることは
生きること

Vol.6

​心はどこに
行きたがってる?

Vol.7

インドそして​タイ

Vol.8

結婚・出産・育児

Vol.9

​HSPとの出会い

Vol.10

エピローグ
「3つの大切なこと」
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Vol.1

『正解』を追い求める子
『やめたい』って言ったら きっと、誰かが悲しむ
Vol.1
小・中学時代。
「ちゃんとしなければ」
という思いが何より強かった。
誰かが叱られていると胸がギュウとつかまれたように痛みを感じるし、先生が大きな声を出すたびにひやっとした。
もし自分が注意されたら心臓が止まってしまうのではないかとびくびくしていたが、同時に「上手にやれば大丈夫」と、いわゆる「正解」を追い求めた。

授業中に隠れて絵を描いていたことがあった。
巡回していた先生に見つかったことがあって、全員の前で叱られた。
恥ずかしさと悲しさで
「心臓から血がでちゃうかもしれない」
と思ったくらい痛かった。
そのまま学年の終わりまで先生の顔を見ることができなくなった。



同級生からは名字に「さん」づけで呼ばれることが多かった。
実はそのことで、なんとも表現しがたいひそかな疎外感を感じていた。
それは実際に同級生が一線を引いていたのを分かっていたからだと思う。
「本当の意味」で誰ともつながれない感覚は、もっと前からずっともっていたから。
人と遊んでいるという状態にいても、いつもどこかで気を張っていた。

小・中学校では学級委員・生徒会役員・会長をつとめ、成績も良好。「正解」を実現するたびに賞賛を得た。コンクール、大会、何かにつけて賞をもらうことが多く、部屋には賞状がたくさんあった。

「なんでもできてすごいね」
というクラスメートの言葉にひやっとした。
本当に「すごいね」とほめてくれる人の中に一部、「何、目立ってんの?」という本音が見える人たちが混ざっているのが分かったからだ。「自己顕示欲強いよね」と実際に言われたこともあった。
自分は承認欲求の塊なかもしれないと落ち込んだ。


小学校5年生の時に
「器用貧乏」
という言葉を知る。
「なんて便利な言葉だろう。」
と思った。

「どれだけ絵を褒められても、歌をじょうずに歌っても、相手を不愉快にすることなくその場を安全にしのぐことができる。」
と本気で感動したのだった。

自分をうまく卑下することで、周囲から自分を守れる感覚があった。



外で「正解」を追う一方、自宅では反抗的だった。
両親いわく、小学4年のころには、ひどい悪態をつくようになっていたのだという。
「外面だけはいいんだから。」
と何度言われたか知れない。

「だれかに分かってほしい」という感覚が膨れ上がっていたのだろう。
「どうせ誰にもわかってもらえない」というやりきれなさが常にあった。
抑えつけたものを抱えるように猫背で生きていた私は自分のことをとても醜いと感じていたし、鏡の向こうに映る自分を嫌いだった。
同時に「かわいそうな人だ」と泣いたりした。自己憐憫はそのまま罪悪感につながった。


水泳を習っていた。
2歳からスイミングに通い、11歳まで続けた。
長く通っているので選手コースに入ることになるが、あまりのスパルタ練習に、時にえづきながら通っていた。
気の強いアスリートたちがガンガンぶつかってくる環境も自分に合わなすぎた。話せる友人は1人もおらず、みじめな時間だった。しかも練習は週に6日もあった。

一方で、がっかりされたくない気持ちと申し訳なさで「やめたい」が言えない子どもだった。
「やめたい」と言ったら、罪悪感で自分が壊れてしまう気がした。
だから行かなくても良い理由ばかり探していた。
「いい加減にしろ!」
怒鳴られて初めて、止める切符を手に入れられた気がした。
「他人の意思に依存して決定する癖」は確実に育まれた。

教育や習い事に糸目をつけけずにいてくれる家庭環境だった。親になって、それがどれだけすごいことか知ることになるし
​本来、そんな環境にあるだけで幸福なはずなのだが、当時の私には「与えられる課題」というふうにしか捉えられていなかった。

当時の私は「習ってみる?」と言われたら、とにかく「うん」と答えるだけだった。
それがつねに「正解」だと思っていたからだ。
気がつくと習い事が週に7日、つまり毎日何かの習い事を行っていたこともある。


水泳をやめたのは、バレーボールをしたいと思ったからだった。
クラスで私にはじめてニックネームをつけてくれた社交的な友人がいて、その子が誘ってくれたのが理由だった。
自分にとってははじめての体験。世界が広がる気がしてドキドキした。

水泳の最後の日。コーチはためいき交じりにこう言った。
「新しいことをはじめても、同じように壁は必ずあるぞ。」
その通りだと思った。でも何とかなる気がした。

はじめて完全に自分の意志で選んだバレーボール。
結果的に、その後私は中学~高校まで計8年以上、自分の意志でバレーボール部に所属することになる。


「自分で決めたこと」は、たとえきついことがあってもふんばれることを知った。




【キーフレーズ】

◎申し訳なくて「やめたい」が言えない

◎「自分で決めたこと」は、たとえきついことがあってもふんばれる

Vol.2

海外に行くと楽になれる?
島の上空からの眺め
Vol.2
下の名前で呼ばれるってうれしい
小5から独学で英語の発音を習得する。
「英語は11歳までに始めた方がいいらしい」
という母の言葉を真に受けたからだ。

毎朝6時に起床して「ラジオ基礎英語」を聴いた。
アルファベットも単語のスペルもろくに書けないのに、なぜ続けられた。
理由は聞こえたままをカタカナに書き起こしたからだ。
それをあくまで参考にして、あとは口や舌を曲げたり伸ばしたりしながら聞こえてくる英語に音を寄せていく。
いわば「ものまね」にコツコツいそしんだのであった。自分の声を録音して、再生して、英語っぽく聞こえるように幾度も試した。
知らない言語があることに胸が躍ったし、自分が別の人になれるような感覚も楽しかったのだと思う。

中学に入るころには簡単なコミュニケーションレベルの英語が可能となった。

自分が英語を得意だと思い込んでいたことで、実際に海外への興味が湧いてきた。
中学でのことだった。14歳で市の国際交流事業で姉妹都市ニュージーランドへ行くこととなった。

初めての体験ばかりだった。
ホームステイをはじめ現地校の授業を経験。
ここで日本とのあまりの違いに衝撃を受ける。
なんて開放的で自由なんだ。ランチは屋外で遠足みたいに自由に食べているし、カフェテリアで飲み物を買っている人もいる。
何より男女の隔たりが少なく、いろんな人種がいたことに興奮した。

リズムをとりながらアカペラで歌いながら、肩を組んで廊下を歩く生徒たち。
肌の黒い人、白い人、中間の色の人、金髪の人、縮れた髪の人、ピアスだらけの人…。
自由さがまぶしくてたまらなかった。
あらゆる点で色とりどりであることが、たまらなく美しく尊いと感じた。

カルチャーの鷹揚さに大きく息が吸える気がした。
価値観がぐぐぐと影響を受けるのが分かった。


ニュージーランドでの体験を機に、帰国子女が全生徒の三分の二を占める、国際基督教大学(ICU)高等学校への進学を希望。
当初、背伸びしても足りないレベルだった。
でも、どうしても行きたかった。
だから猛勉強した。勉強しても勉強しても、合格するためにはもっと勉強したいと思った。

それは、今までの自分を押し殺したような状況をなんとしてでも脱して、ニュージーランドで触れた圧倒的な「リベラルさ」を自分の手でつかみたいという、ほとんど執着に近い熱量だった。

そして無事合格。
明確でわかりやすい目標を持っていると、エネルギーは確実についてくる。



―高校へ入ると、実際にとてもインターナショナルだった。
私のことを名字で呼ぶ人も、ほとんどいない。

ファーストネームで呼ばれることは、相手に受け入れてもらっている気がして幸せだった。

一方で成績はだだ下がる。
「優秀すぎる人々に囲まれているから当然だ、むしろここに入れる自分が誇らしい」そんな感覚だった。
そんなわけで勉学へのモチベーションはあっけなく地に落ちた。

そのころ、音楽バンドのボーカルを募集しているんだけど、と誘いを受ける。
はじめてカラオケ以外の場所で人前で歌うことに。
小学校の時みたいに、「自己顕示欲」と解釈しそうな人がいない雰囲気だったから、それまで風呂場でしか歌ったことのないホイットニーヒューストンの「I will always love you」を歌ってみた。
みんながすごく驚いて拍手をしてくれた。うれしかったし、躊躇しなかった自分にも驚いた。
自分の歌は悪くないのかもしれない、と気づいた最初の出来事だった。

海外への思いは深く、高校三年の夏休み、民間企業の国際交流事業として高校生海外派遣プログラムに応募。
アメリカのプリンストン大学の寮で、現地の同年代の学生たちと生活するという内容でかなり色濃い体験をさせてもらう。
「閉じていた蓋が開く感じ」はニュージーランドでもあったが、アメリカは輪をかけてオープンだった。

プリンストン大学の講堂で数百人の前でステージで歌うイベントがあった。
歌い終わったあとの、聴いてくれた人たちのリアクションがすごかった。

スタンディングオベーション、机をバンバン叩きながら、口笛や歓声が轟き続ける時間。
ここでステージでパフォーマンスすることの魅力にますますとりつかれる。


「自分の内側をより自由に開いても、許される場所はある。許されるどころの話じゃない。開ききった時に奇跡に​すらつながるのだ。」
と確信した。






【キーフレーズ】
◎英語は「ものまね」で寄せていくのが正解
◎明確でわかりやすい目標を持っていると、エネルギーは確実についてくる
◎ファーストネームで呼ばれることは、相手に受け入れてもらっている気がして幸せ
◎自分の内側をより自由に開いても、許される場所はある

Vol.3

そして誰もいなくなった
自分の心を無視すると、いくらでも孤独になれる
Vol.3

大学受験。
まったくモチベーションが上がらぬまま、半ば無理やり受験に自分を追い込む形に。
結果はさんざん。
当たり前だ。ビジョンも何もないのに、ただ流されていた。高校でゴールした感じがあったから、その後の人生に想像を膨らませる余地などなかった。今が良ければよい、という思考停止の罠にハマっていたのだと思う。
なんとか合格した第三希望の某大学にすべりこむような形で入学した。


ところが入学して2ヶ月たらずで、大学に行かなくなってしまった。
正確にいえば、「行けなく」なってしまった。
行くのが「正解」なのは理解しているはずなのにだ。

校門までたどり着くも、一歩踏み出せず引き返してしまうのである。
​大学に送り出してくれた親に申し訳ないし、行かなきゃと自分を奮い立たせ
「今日こそ」とばかりに学校に向かう。
ところが学校最寄り駅で電車を降りることができなくなる。
そのまま駅を通過する。
そんな自分を責める。

妙な状況は、みるみるうちに自分を蝕んでいった。

心が荒れ、肌も荒れ、視界の上半分がボヤけたように見えていた。
「生きているのか死んでいるのか分からないような状態」というのが一番近い表現だと思う。

なぜそんな感覚が急に襲ってきたのか、感情の正体がわからずとにかく戸惑った。
自分が分からなくて苦しかった。


渋谷の繁華街をただうろうろする日々が続いた。
いろんな種類の人間が行きかう場所だからだろうか、自分が無目的に徘徊していても許される気がした。

みるみるうちにエネルギーがしぼんでいった。
食べたものさえ嘔吐するようになった。

勢いよくすさんでいくのが自分でも見てとれた。


せめてアルバイトでもしようとするも、何をしても苦しい。
「寝起きで100mダッシュしろ」と言われているくらいの無茶さに感じた。
「世の中の人はどうして、この苦しい時間を8時間も続けられるのだろう」
と思ったら、自分がどうしようもない怠け者に思えた。
体力と精神力が地の底へ落ちた。数ヶ月までバレー部のキャプテンをしていたというのに。
苦痛で仕方なかった。

友人と連絡を取り合うこともほぼなくなった。
廃人のような状態の自分のまま誰とも会いたくなかった。

まるで自分は幽霊みたいだと感じていた。1年前には、アメリカで生き生きした気持ちを謳歌していたのが夢みたいだった。罪悪感と自らの情けなさに、自分の生きている価値を見失いかける。

「私は病気だ」と思った。

この自分のエネルギーの急激な低下の意味が、この時はまったく分からなかったが
1つには自分の立ち位置が見えなくなってしまったことがある。
よく考えてみたら、これまで「正解」を追い求める時、必ずそこに「相手」がいることが前提だった。

他人軸が強く、人の感情を気にする習慣が身についていただろうか。
他者がいないと、自分は軸がなくなって存在しなくなってしまうみたいだった。

内側にある本当の欲求に耳をかたむけることなく生きてきたことが、ここにきて自分の首を絞めていたという事実を知るのは、ずいぶん後になってからだ。




【キーフレーズ】
◎内側にある「本当の欲求」に耳をかたむけることなく生きてきたことが、自分の首を絞める

Vol.4

表現することは生きること
表現をするとは
自分を愛すること 世界を愛すること
Image by Mohamed Nohassi
Vol.4
転機が訪れる。

「表現・芸術」を学べる学部が早稲田大学にあるらしい。

「表現・芸術」

それは自分の中でつねに「遊び」の位置づけだった。
たくさん絵を描いてきたが、あくまで「休み時間」だけだったし、授業中に絵を描いたら怒られたし
「表現」というのだって、結局「遊び」の延長じゃないか。

「あれ?『勉強』じゃないのに、いいの?」

と、まず思った。

学問として「表現・芸術」が存在していることに胸が躍った。

何をもって「勉強」で何をもって「遊び」かなんて、そもそも区別できるものではない。
少なくとも当時の自分にとって「勉強」は「それなりに苦しくてやりたくなくて自分に鞭打つものでなければならない」という思い込みがあった。


自分の内側の方で温かいものが動いたのが分かった。
​逃してはいけない感覚な気がすごくした。

その時、ふと思ったのだ。

―変わるなら今しかない。

その時点で「受験まであと3か月」というタイミングだった。
どう考えても遅すぎる。

でも、もとの状態には絶対戻りたくないというパワーが圧倒的に勝った。

生まれてはじめて親に土下座をした。
「せっかく行かせてもらった大学を退学させてもらいます」と。

後に引けない状況と意志があると、思わぬ力を発揮するものだとつくづく思う。

結果、受験は成功した。

対人コミュニケーションの鈍った勘はなかなか戻らず、基本的に特定の友人と関わることはなかったが、この頃から海外へのバックパック旅に目覚める。

旅は完全にフリーで、完全に1人だ。
自分の判断だけで過ごし方を組み立てることの圧倒的な自由の快感を知る。
現地で偶然起こるハプニングさえ尊い。


大学では戦争文学や児童文学に惹かれた。
本質について考えたり、話したりするのがよろこびだった。

―もうひとう転機があった。

ミュージカル劇団にお誘いをもらったことだった。
紹介してくれたのは、高校時代の親友。
ここで表現者としてあたらしいステージを経験することになる。
それまでの対人コミュニケーション不安は徐々に払拭されていった。

ミュージカルの幕が終わってた時、私は泣いた。
友と離れるさみしさに大泣きをした。
何年か分、欠けていた「人のぬくもり」が一気に心に押し寄せてきたかんじだった。
場所をはばからずわんわん泣いた。あんなに泣いたのは後にも先にもないというほど泣いた。
泣きたいほど人とつながれたことが幸せだった。

何かが溶けていくみたいな気がした。
心が、すごくあったかかった。



【キーフレーズ】
◎「後に引けない状況と意志」があると、思わぬ力を発揮する
◎自分の判断だけで過ごし方を組み立てることの圧倒的な自由
Vol.5
Image by ‏🌸🙌 أخٌ‌في‌الله

Vol.5

感じることは生きること
本質を知るために
自分の身体で感じる
大学3年の時だった。

テレビを見ていた時のこと。

アメリカがイラクのバクダッドに爆弾を打ち込むシーンが目に入った。

映画みたいな爆撃シーンに、心が乱れた。
胸がひりひりして、悔しい気持ちがあふれてきた。

遠く安全な場所から眺めているだけの自分はどこに立ってこの状況をみているのだろう、と自問する。
分かったつもりで、胸を痛めた「つもり」の自分のウソの部分が浮き出てきたような気がした。


ちょうどそのころ、大学のゼミ授業で私は辺見庸氏の「戦争文学」の講義を受けていた。

辺見さんはこう言っていた。

ー本質を知るために「実時間(じつじかん)」を知ることが、人生においていかに重要か。
本やテレビで見聞きしたことを、分かったつもりで語るのではない。
実際を見て嗅いで感じることが大事なのだ。たとえ文章の中に表現されたものも、当時の実時間に感覚を寄せてでとらえることが大事だー

といった内容である。


その年の夏休み前のこと。

イラクで戦争被害から民間の人たちをサポートするNGOの方の講演会に参加した。
被害を受けた​イラクでは、米国の攻撃に民間人が苦しんでいるらしい。

そのままNGOのイラクボランティア担当の方に連絡をとり「私も現地に連れて行ってほしい」と無理を言って頼み込んだ。
「戦禍の国に連れて行ってほしい」なんて、当然断られると思っていた。
ところが、なんと許可をいただいたのだった。
現地の子どもたちとのワークショップを行う際、音楽担当として同行させてもらうことになった。

当時のイラクは危険レベルが最高で、外務省は日本人のイラク入国を認めていなかった。
直行便はもちろんない。
隣国ヨルダンに一度到着してから、砂漠を陸路で国境越えすることとなる。

日本の外務省から用紙にサインするよう求められた。その紙には
「命の危険があることを承知しています。万が一命に何かあっても、日本国による補償その他を放棄することをここに認めます。」
という旨が書いてあった。

自分の名前を書いた手がふるえた。

でも、決めたのだ。
命をかけてでも、確かなものを私は自分のこの目で見て、この身体で感じ、この心で受けめる、と。


それは「使命感」を超えたところにある、激しいこだわりだった。



ほんとうに正しいものを見る。

その「正しさ」は、かつて必死で追いかけていた、学校の「正解」とはまったくちがうもので
もっと、激して熱くてギラギラしたものだった。

―イラク。

爆撃を受けた直後のバクダッド市内で、銃を持ったアメリカ兵たちが戦車に乗って監視している間を移動した。
めまいがした。

現地の家族と交流し、パレスチナ難民キャンプや、空爆で怪我した子ども、目の前で家族を失った少年の話などを聞く。

「これぜんぶ、人間と人間が作ったストーリーの結果なのか」と思った。


イラクの人の顔、におい、痛み、叫び、平和な家族の憩いの時間、庭のチャボの鳴き声、お茶の甘さ、爆撃を受けた小学校のピアノのずれた音階、ナツメヤシの木の風景、子どものケンカ、赤ちゃんの笑い顔、お母さんのまなざし、チグリス川とオレンジ色の巨大な夕日、半壊した建物、ボロボロの車が列を連ねるガソリンスタンド、乾いた音の銃声、野良犬の悲鳴、めまいがするほどの空気の熱ー


とても暑い国だった。



【キーフレーズ】
◎本質を知るために「実時間」を知ることが、人生においていかに重要か

◎この目で見て、この身体で感じ、この心で受けめる
Vol.6

Vol.6

衝動的になってはじめて自分がどうしたいかわかる
​ 衝動に至らないと 自分がどうしたいか
わからないまま
​心はどこに行きたがってる?
Image by Erik Karits
大学の同級生が就職活動を始めたころである。

「会社説明会」というイベントに参加してみた。
いろんな企業がブースを構えて、就職活動をしている学生が相談をしたり説明をしたりする会である。

説明会会場に入った瞬間、黒いスーツばかりの光景が目に入るや、そのまま身をひるがえして帰宅してしまった。
「圧倒された」という感覚が一番正しい表現だと思う。


突然、このまま何を目指してどう生きて行ったらよいのか分からなくなった。


ビジョン無く決定することで、大学入学当初のように荒んでしまったらどうしよう、という焦りもあった。

当時、ニューヨークに留学していた親友を訪ねてみた。
なにか迷いを捨て去るきっかけがほしいと思った。

自分の内側が求めるものを、自分で聞き取ることをしてこなかったツケだろう。
つねに、外部から「自分が本当はどう思っているのか」のヒントをもらおう、とする癖がどこかにあった。


ニューヨークでは親友に誘われブロードウェイミュージカル「RENT」を見に行った。
その衝撃は鳥肌もので、激しいエネルギーに表現のすさまじさに震えた。

やっぱり、自分は「表現」に立ち返りたかったのだ、と理解した。

そして
「就職はしない」
と決意する。


「歌おう。」
と、しっかりと思った。


―とはいえ現実は、生活をしていく必要がある。
内側の感覚をキャッチしてあげたのは良かったかもしれないが、それを具体的にどう広げていくかというアイデアもビジョンもなかった。


昼は契約社員や派遣社員、かけもちで夜、バーやスナックで歌う環境を複数手にした。
でもどこかしっくりこない。
「歌っているという状態を維持するために歌っている」
というような感覚だ。



また「歌いたい」と口にすればするほど
否定する言葉もまたたくさん受けた。

「歌が上手な人なんてゴロゴロいる」
「そんな生ぬるい状態で、歌手になんてなれるか。」


何より困ったのは、自分の歌に対するモチベーションが実際に高くない事実に直面したためである。
歌が歌いたいことは、歌手デビューすることとまったくイコールではなかった。

賞賛を受けたいのだろうか。
いや、承認欲求とも明らかに違う。
有名になりたいというのともずれる。

世の中の音楽家たちが熱量多く練習に励んでいるというのに、私のコレはなんだ?


確かに「歌って」いるが、何かを達成している感じや、何かを目指したい感じがしない。



そもそも自分にとって「歌う」って何なのだ。




​考えてばかりだった。
考えてばかりの自分が、言いわけを探してばかりいるみたいで、イヤで仕方なかった。




【キーフレーズ】

◎「表現」に立ち返りたかったのだ

◎歌が上手な人なんてゴロゴロいる



 
Vol.7
Image by Anurag Garg

Vol.7

インドそして​タイ
自分の心とつながると
​世界は180度変わるのだ
26歳で1ヶ月半、単身インド旅へ行ったときに転機が起こった。
インドの悠久の中で過ごすことで、自分の内面とつながる体験をする。




「自分の軸が、自分の内側ではなくて外部にあると、望むことや確かなことが見えなくなるんだな」と理解した。




帰国して1年後、タイに移住する。

日系企業の現地採用として営業職をいただき、ビザ問題も事前にクリア。目標が明確だと物事がスムーズに進むと実感する。
貯めた100万円をもって、スーツケースに文庫本を詰め込み、バックパック背負って成田空港を発つ。

ところが営業のお仕事は1ヶ月で挫折することになる。
タイの日系会社は昭和気質で、日本でももうありえないようなパワハラ・セクハラが当たり前だったことに、ショックを受けたためだ。

ここで、いよいよ自分の脆弱性を痛感する。


「タイでもダメなのか!」

を問いながら、今度は慎重に仕事を選んだ。
結果的に、自分が前向きに取り組めるお仕事は複数に及ぶことになる。

家庭教師・フリーペーパーの記者・グルメライター・塾の先生、インターナショナルスクールの週末校。

リスク分散をしていたわけではない。
自分は1つのところに長く所属したり、誰かに監視されていたり、同じ仕事をずっと繰り替えしていたりすると、妙な消耗の仕方をするのを自覚していたし、とにかく仕事をして生活しなければと思ったら「できることで、ニーズがあるもの」を片っ端からやってみたらこうなった。

教えたり伝えたりするのはなぜか得意だったし、そこに生まれる生徒との関係性も好きだった。
とくに生徒とマンツーマンだと、とても良い雰囲気が生まれた。
ライターの仕事も一人だったから、自分のペースでできるのがよかったし、やっぱり自分にとってペースを得られることが大事になってくるのだな、と思った。



お仕事ももちろんだが

「ステージで歌いたい」

と思った。

ーと、ご縁があって、ボーカルをちょうど探しているジャズバンドに出会う。
バンコクのバーやホテルで演奏をしているジャズバンドだ。

ジャズの経験などゼロ。
曲もほとんど知らない。
でも歌わせてもらうために「できます」伝えた。
そしたら「数日後にバーでステージがあるから来て」とお声がけいただく。

焦ったし困ったけど、やるしかない。
翌日にはお客さんがたくさんいるバーでふつうの顔をしてステージに立って歌う、という状態にまで自分をもっていった。

一夜漬けで覚えたジャズのスタンダード曲を「以前から歌ってます」みたいな顔をして、ステージを完結するということが可能だということを学ぶ。

おそろしいスリルだけど、とても楽しい、と思った。
普段は不安だらけなのに、こういうところでは肝が据わっている自分を少し認められた気がした。

ステージ上で自信なさげなところを見せて余計恥ずかしくなる状況より、強引につきぬけてしまった方が、単に自分の心にとって
「まだマシ」なだけかもしれないが。

自分がわりと得意なことをしながら生活をし、音楽を通じて人とつながる。

ここまで豊かさを感じたことはなかった。
貯金なんてほとんどない。ところが、不思議と不安はみじんも感じていなかった。

最悪、入院が必要になった場合の金額と、日本への片道チケット代があればいい、と思っていたし
タイの屋台のごはんが安くておいしかったことにも救われた。
一日2食で500円もあれば、ビール付きの屋台飯が食べられた。
日本にいるときよりリッチな感覚さえ得ていた。


対人コミュニケーションも、異国での切羽詰まった状況ではこだわっている場合ではなかったから
出会う人出会う人にお世話になった。
「何かあったらきっと助けてもらえる」という感覚で、知人・友人とつながれていたという安心感が何より強かった。

助けてくれる人たちの存在があることで「よし、もっとがんばれる」と思う感覚も新しかった。
甘えることが下手だった自分にとって、頼ることは「失礼なこと」「悪いこと」だったからだ。

全然ちがった。

頼ることができるから、自分の足でより速く走れるのだ。

ある時、歩きながら鼻歌を歌っていた自分に気づいた。
「心が晴れていて思考もシンプルだと、無意識に鼻歌を歌うんだな」
と思った。



​人生ではじめてくらいに、心が開放的だったとき、私は恋愛をすることに。​
生きることに不安なんてなかったし、さらに幸せにしかならないだろうと思っていた。
あれよあれよと結婚をすることに。あっという間のスピード結婚だったし、両親に報告する直前に子どもを授かっていることも判明。

こわいものは、なかった。



​―はずだった。


 
【キーフレーズ】

◎自分の軸が、自分の内側ではなくて外部にあると、望むことや確かなことが見えなくなる
◎頼ることができるから、自分の足で走れるのだった。
◎心が晴れていて、思考もシンプルだと、無意識に鼻歌を歌う

Vol.8

結婚・出産・育児


 


そして自分を見失う
 
Image by Liane Metzler
Vol.8
結婚したのは、自分の肯定感や心身の状態がおどろくほど良い時だったので、「むしろさらに良くなるばかりだ」と確信していた。

雲行きがあやしくなってきたのは、つわりや妊娠にともなる体調不良が頻繁に発生したくらいからだった。
子宮筋腫があったため、お腹が大きくなるにつれて強い痛みが発生するようになった。
つわりも想像以上なものだった。

いちばんの誤算は、それまでつながっていた人たちと、それまでと同じように会えなくなってしまったことだった。
​友達の作り方もわからず、孤独感が増していったのもよくなかった。

自分の身体も時間もコントロールできなくなった。
無敵だと思っていた自分が、たまらなく頼りない存在に思えた。

「産後クライシス」なんていう言葉を知るのは、ずいぶん後になってから。

私は完全に妙な状態だった。
お笑いやバラエティ番組で大爆笑のシーンで、涙が止まらなくなったり、いら立ちや焦燥感の程度もバランスもおかしい。
背中と腰の慢性的な痛みで呼吸がずっと苦しい。

ただ、生まれてきてくれた子への愛情と感謝の念が、同時にあふれ出てくるものだから、感情はあっちにいったりこっちにいったり
振れ幅がありすぎて、混乱するばかりだったた。

夜、家を出ることが難しくなり、ほとんど歌を歌いに行けなくなった。
それでも「1時間だけ歌いに行かせてほしい」と懇願する私は、勝手な母親に映ったことだろう。
なにより自分で「帰宅したてのパートナーに預けて外出しようとするなんて母親失格だと」と自分を責めた。
でも「歌いに行かないと、つぶれてしまう」と思っていた。
ライブはたいてい夜なので、その時間子どもを見てくれる人も見つからない。

パートナーとの衝突も増えた。
苦しいのに理解してもらえないと思い絶望した。

このままでは家での信頼関係が破綻すると思い、歌うことを辞退することにした。
歌手活動を辞退してことでそれ以上自分を責める必要がなくなって安堵する気持ちもあった。

ふりかえれば自分にとって歌を歌えた時間は、大きな「息抜き」の時間だったはずなのだ。
自分のごきげんをとれるチャンスだったのに、そのオプションをなくしてしまった。

自分があきらめることで、調和を持とうとする心の働きが出てきた。

その代償は大きかったことに、だいぶ後になってから気づくことになる。

静かにいら立ちを心の中に育てはじめていたのだと、今振り返って思う。


―赤ちゃんは愛しい存在だ。
同時に強い責任感が無意識に発動する。
これまで知らなかった種類の細胞が動き出すみたいに。


私はまた昔のように「正解」を追い求めはじめた。


バンコクにきて、せっかく体得した「人に頼ることの尊さ」も、子育てにおいてはどうしようもなかった。

経済的にパートナーに完全に依存している。
一人では生きることができない。
この子を守り抜く。

依存心と責任感が不協和音みたいに暴れていた。

パートナーシップは助け合いであるはずなのに、いつしか「期待してはいけない。自分でなんとかしなければ。」という心が育っていた。
依存しているのに頼りたくないという情けない反発心と、コップのなかに溢れたガマンの気持ち。
「せめて自分に経済力があればもっと自立して強くなれたのに」
という悔しさと情けなさは、かつて「お金がないのにこんなに幸せ」という自分の記憶を消し去ってしまったようだった。

その事実を受け入れたくなくて、さらに自分に鞭を打つ。
悲鳴をあげた心で、助け合いのコミュニケーションなんて生まれるはずがない。

「ひとりでできるもん」
って、親に反抗する2歳児と同じ理屈である。

2歳児と違うのは、相手が親ではなく他人だったというポイントだ。

負のスパイラル。
自分でなんとかしようとして、コップからガマンの水があふれ衝突。

それなのに
「いつかなんとかなる。きっとできる。」
と未来にばかり期待していた。

「自分はダメだ。もっとちゃんとしなきゃ。」
さらにメンタルに鞭を打つことでますます孤独は進んでいくのだった。



―子どもが2人うまれたころ、会社から日本への帰国辞令がでる。

時期を同じくして、夫が会社を辞めると言った。

心に正直であることは良いことだと思うので応援した気持ちはあった。
幼い子どもたちと自分の今後への不安もあったが「相手はなんとかしてくれるだろう」どこか慢心していたのだろう。
受け身で依存的な状態だった。

子どもたちがかわいくて愛しすぎる。手もかかる。
この子たちを置いて、働きに出るなとまだ発想にもなかった。

3人目の子をお腹に授かったころだった。
夫は大手の会社員を辞めた。

思ったより簡単ではなかった。
その後、3人の育児、環境の変化に加え、生活費コントロールの課題が深くのしかかってきた。

「贅沢はしない。でも子どもに良き体験はできるだけ与えてあげたい。足りなくなったら自分が働けばいい」
というスタンスだったが、いよいよきれいごとが通用しなくなった。

大事な小さな人たちと一緒に生きることは、新しい価値観が生まれることなのだと実感した。
たとえ自分は穴の開いたパンツを履いていても大丈夫でも、この子たちを楽しい場所に連れて行ってあげたい、という欲はでてくる。

貯金額が減っていくスピードに比例して、わかりやすく夫婦の関係性が悪くなっていった。
パートナーを責める気持ちが自分の中に増していく。
感謝するどころか、自分が被害者のように思う始末だった。

その後、3人目の娘が保育園に行くころ働きに出るのだが
「私が子育てしながらフォローしてあげてる」
といった恩着せがましい気持ちさえ出てくる。


ひどい衝突があれば、心が耐えられず、子どもを連れて家を出た。
そのたびに、お金はまた減る。

そしてまた衝突が起こる。


なにがなんだかわからなかった。
でも、気持ちのよくないものが内側で煮えていたかんじがした。




一連を遠して、自分が「ある条件」の際に、感情的になって論理性を失うことを理解した。


「不安」と「恐怖」の存在だ。


それらが大きく先だった時、それまで自分のロジックをきちんと持っていたとしても、伝えることができず思考停止してしまうこと。

感情的になって涙が止まらなくなること。


今ならわかる。

「やめます」が言えないから、自分を痛くしてボロボロにしないと、やめられないと思っていたのだ。無意識に。
思えばそういうことはこれまでもあった。

たとえば、もう一緒にいるのは自分にとって苦痛だ、と思ったとしても「別れよう」が言えない。
身体中にブツブツができて過呼吸になって、見かねた誰かが「もう別れた方がいいよ」と言ってくれるのを待っているようなこと。

そう。
「習い事をやめたい」
が言えなかったあの時と、同じだ。

ただ、家庭を運転することは、ずっとアクセルを踏み続けることだ。
習い事みたいに途中で休むことはできない。

精神も心も身体もボロボロなのに、おむつをかえ、ごはんをつくり、笑顔で子どもたちと接し、パンツを畳む毎日。
自分の心の中で大事なものが置いてきぼりになっていくような感覚があまりに切なくて、しばしば隠れて嗚咽した。
思い切り泣くこともできない。

一方、子どもたちを取り巻く状況も決してスムーズではなかった。
長男はもともとハイパーな気質で、椅子に3秒と座っていられたためしがなく、日本の幼稚園ではトラブル続きだった。
「もう幼稚園いかない」とテコでも動かず、そのまま数ヶ月休むことになったり、小学校にあがっても登校拒否のためにトイレにこもるような状況で「学校は地獄」と泣いたりしていた。

「気持ちのコントロールができないということは、発達障害の可能性があるからケアが必要では」
と提案を受けたりもした。専門施設に相談に行ったりした。診断はつかなかった


長女は幼稚園で一切しゃべらないという「場面緘黙」という状態になり、幼稚園を退園し加配付きで保育園に中途入園することに。
小学校は半年で不登校に。
すでに仕事をしていたので、家においておくわけにいかず、いろんな場所の門戸をたたくも、低学年の受け皿は無きに等しかった。
「不登校難民」状態になる。

先生に「発達障害の可能性があるから、テストを受けてみたら」と提案を受けたりもした。結果、やっぱり診断はつかなかった。


このことを相談できるお母さんの友達がいなかったことが、さらに自分を孤立させていったように思う。
相変わらず、近い距離感で友人関係を持つことへの恐れがあったからだ。

「親御さんの関係性が安定していないことが原因で子どもは不登校になりますよ」
と市の福祉担当者に言われたときに、苦しかった。

子どもたちに「寄り添っている」のではなく「邪魔をしている」ような気がした。
気が付けば
「自分みたいにならないように、健やかに育ってほしい」
ということが子育て目標になっていた。子どもたちにしてみれば、なんという迷惑なはなしだろう。


安心して不安を口にできる場所がなかった。
つねに不安で、いつも爆発してしまいそうに、心が張り詰めていた。

愛しい子どもたちとのかけがえのない時間の裏には、圧倒されて痛みだらけの時間があった
Image by Joe Pohle

Vol.9

​HSPとの出会い

ずっと『そこ』にいたのに見てあげてなくてごめん
Vol.9
転機になったのは、最初の子育てから9年がたったくらいの時のこと。
海外に住む友人から「HSPって知ってる?ユイちゃん、HSPじゃないかと思って。」とメッセ―ジをもらったのだった。

HSP。
心理学と脳科学に裏打ちされたその概念を知ったとき、電流が身体の中を駆け巡るような感覚になった。

自分の心のスイッチの場所が分からず、「考えすぎ」「感情がありすぎる」と指摘を受け続け、時に攻撃性を招いていた私の人生は、いわゆる「生きづらい人」のそれに該当するらしい。


「生まれながらにして、高敏感性をもっている人間が一定の割合で存在する」
という臨床心理学・脳科学のデータを知った時、まるで免罪符をもらったようだった。
心の底から安堵した。
「長年牢屋に入っていた人が刑務所を出たとき、こんな気持ちになるんじゃないだろうか」などと思った。


さらに、まったく同じころ、娘が行った総合病院での発達テストの結果、担当ドクターに告げられた言葉こそ
「HSC(Highly Sensitive Child)」
だった。

HSPは遺伝することもあるという。
ここでいよいよ信憑性が増す。

娘は幼いころから、やたらと内面的な話―死後の話や、本質的な心のことーを言う大人びたところがあった。
そういうことも特徴だと書いてあった。

このころ、息子と娘の学校行き渋り状況を打開して、彼らが安心できる居場所を確保しようとして調べていたのだが、ひょんなところから地元にあるオルタナティブスクールと出会うことになる。

「指導によって型にはめていく」のではなく
​「その子が形作られる過程をサポートする」というスタンスに感銘を受ける。

心がワクワクした。
受けなおした大学のパンフレットを見たときの感覚に似ていた。

ただ、生活でギリギリなのに高い学費には手が出ない。場所もちょっと遠い。

そこで「ビジター登校」という形で、たまに参加させてもらうことになる。
「こういう人々と関われる」
それだけで、うれしかった。

と同時に「教育のあるべき形ってなんだろう」と問いはじめる。


そこからは、HSPについて夢中で学びを深めた。

「私だけじゃなかったんだ」

安堵はどんどん強まった。

その感覚は、のちに「繊細なアヒルの子~ The Sensitive Duckling~」にしたためることになる。

こんなに安心する世界があるのだと知る。

HSPを伝えるための講座を受けて、HSPには神経系が大きく影響するということを知った。
目に見えない神経の動きについてイメージできるようになった時
これまで自分を苦しめていた、得体の知れない感覚が徐々に明らかになった。

くずれおちたパズルが一つずつはまっていくような感覚は爽快だった。
あれだけ、他人の言動に影響うけてビビりがちな自分だったのに

「HSPだからどうこうというラベル付けはどうかと思う」
​「レッテルを貼るべきではない」

という外野のヤジ声もまったく響かない。

HSPの概念に救われた人間がいる。
ほとんど消滅しかけていた自尊心を前向きなエネルギーに変えていけた人間がいる。
自分を俯瞰する武器を手に入れた。

​その事実だけですごいことだ。

そう思ったら、はじめてきちんとその存在を認めることができた。

生まれたときから、本当はずっとそこに在った
自分の宝もの。

自分そのものの「まるい玉」の存在を。



 
Vol.10
Image by Luca Maffeis

Vol.10



パクチーに込めた想い
Image by Jonathan Marchal
エピローグ
​「3つの大切なこと」
世界がコロナウイルスの騒動に巻き込まれる。
それまで翻訳者として働いていた会社から休業命令が出た。
助成金でサポートを受けながら自宅待機を、ということである。その後、退職命令に至るので良いことばかりではないが
はからずして、1年間「有給休暇状態」になる。

私はせっかくの機会を自分自身の実験に使ってみることにした。

「やりたいと思った時にやりたいことをする」

ただ、それだけのこと。

それまで正解を追いかけて、重荷を強いてきた自分にとって、まっすぐに自分のやりたいことを許可するのは抵抗があったが
ベーシックインカムが保証されている安心感は大きかった。

心ゆさぶるアートがあれば、描いてみた。
美しい音色の楽器があれば、作ってみた。
音を奏でたいと思ったら、歌い弾いた。
曲と言葉が浮かんできたら、音楽を創った。
書きたい文章が浮かんだら、もくもくとPCに向かった。
​語りたいことがあれば、マイクでしゃべった。

自分に許可を与えたとたん、内側から衝動があふれてきたのだった。


こんな生活をしていたら「3つのこと」が見えてきた。

1つ目は、自分がアートに向ける欲求が強いことが判明した。
生み出したい、創り出したい、という衝動が大きく、その時ばかりは何時間も通しでやり切ることができることがわかった。

歌を作り、絵を描き、楽器を作り、奏でる。
その中でもずっと魅了されていたドット・マンダラアートへ時間と労力をひたすら注いだ。
描いても描いても、満ち満ちた気持ちだった。

疲れやすくて、フルタイムで仕事などできないと思い込んでいたが、厳密には違ったのだ。
エネルギーが向けられる対象には、ずっと向き合っていられるのだ。



2つ目は「自分の興味のジャンルは複数で、どれに絞ることもできないし、その熱量は一定期間経つと次に移り行く」というものだった。
好奇心をもったものに対する飛びつき方は深いが、そこそこの結果が見えると、すぐに別のものに意識が飛んでいく。

このことをずっと「器用貧乏」として自分で揶揄してきたが、実はこの現象には名前がついていることを教えてもらう。

「マルチポテンシャライト」
というワードを聞いたのがこの頃だ。

「移り行く」といっても、衝動を与えてくれるジャンルは、時期を経てちゃんと戻ってきた。

1つのことを終えると、また別のことがやりたくなる。
その間にまた次のことに心が動く。

まるで順番に手をあげて、立候補するみたいに気持ちが湧き上がってきた。

​人生では明確な1つの目標や仕事を持つことを尊いこととされるという見方もあるが、そうでないパターンもアリなのかもしれない。

それを良しとして体現していくことこそ、私の使命なのかもしれない、と確信した。


3つ目はてんでバラバラに思えた、興味の対象が、実は同じ「世界観」でつながっていたこと。


たとえば

「ふぞろいなもの、不完全なものが、魅力をまとったときに、たまらない美しさを感じること。」

たとえば、浜に転がる石。打ち上げられた流木。

一つとして同じ形になり得ない手作り楽器。人。それぞれとんがった部分がある、1人として同じ人はいないこと。

不完全なものは、その不完全さを追及されたとき、マイナスになる。加工されてつるつるした正確な寸法のまっすぐな木が「完全」なのだとしたら流木は単に「不完全」なものとなってしまう。でも、流木の不完全性が美しくアートになった時に、その存在感はまっすぐな木のそれがまったく及ばぬほどに圧倒的だ。規格外のものちょっとずれたものこういったものに、プラスの光が当てられた時のすさまじい魅力を自分は心底実感している。人間も同じだと思う。独特に曲がっていたり、細すぎたり、太すぎたり、ザラザラしていたり。そのどれをとっても「不完全」なものなどないのだ。


それから
「複数の色が不規則に交じり合っていることで織りなす世界観に心を惹かれること。」

パステルカラーやアクリル絵の具が交じり合っている部分。虹の複数の色が交じり合ってる箇所。
1つ1つは別の色なのに、全体を見るとすばらしいハーモニーになっている。

人もしかり。
いろんな人の色がある。
自信をもって、その色を表現すればいいのだ。
いろは独立して、あいまいな曲線を描きながら他の色と織りなすアートになる。

仮に、それらを均一に混ぜた時、何色になるか?

それが、カーキー色。

イラクのバクダッドで、銃口をもってこっちを見ていたアメリカ兵たちが着ていた、あのおそろいの軍服の色。


さいごに
「正解・不正解のないことに魅了されること。」

「哲学対話」という対話方式について教えてもらったのは、オルタナティブスクールでの出会いがきっかけだった。
「すべての発言に、正解も不正解もない。発言を拒否する自由もある。だれも仕切らない。結論もない。」

そんなお話の場所が成立するというのだ。

「きれいごとだ。」
と思った。
「何か生産性があるのだろうか」
とも。


ー結果、「哲学対話」を通して、自分の思考は思いがけない展開を見せた。
哲学カフェを始める前とそのあとではまったく違う脳内の循環が生まれたのだ。

「正解がないって、気持ちいい。何より安心で安全だ。」
と興奮すら覚えた。



これらの要素が、自分の中の圧倒的な世界観だったことに気づいたとき

ともすると、悲鳴を上げて逃げ出そうとしていた原因が

「正解」

を基準にしていた場合だったことに気づく。


幼少期から中学を卒業するまで「正解」を一生懸命追っていたのはなんのためだったのだろう―と。


「正解」を見失って、命が枯れそうになったこと。

「正解」をふりはらって、自分の足で歩こうとしたものの、支えていた基準がなくて、迷子になってしまったこと。

結婚・出産後、生じた責任感によって、ふたたび「正解」に引き戻されて、苦しくて溺れそうになったこと。




表現をすることは、自分とつながることだ。

表現には「正解」がない。

自分の内側から出てきたものを外に出すだけだ。

自分とつながったら、そこから世界につながっていく。


自分にやさしくなる。
すると人にやさしくなる。

そして世界はもっとやさしくなる。





 
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