安心してアウトプットできるということ
集団の中で意見しづらいことの原因
例えば学校で先生が「何か質問はありませんか?」と聞いたとします。
そこで、なかなか手があがらずに、場が静まり返ってしまう、といったことがしばしば起こります。
TVなどのメディアで「日本人は自己表現が下手だ」と「意見がない」などと言われることもあります。
―本当にそうでしょうか。
かりに信頼できる人と2人きりで静かな場所で同じ話をしたとき、「意見が出ない」ということは果たして起こるでしょうか?
カフェでは今日もたくさんの人がたくさんおしゃべりをしているし、子どもたちは家でいろんな話をしたがります。
ところが、環境が変わったとたんに、自分の言葉が出づらくなってしまうのです。
なぜでしょうか?
これは、ひとえに「場に対する不安感」によるものです。
「意見がない」のではないし「自己表現ができない」わけでもありません。
「場」の雰囲気に対する安心感がないことが大きな原因だと考えられます。
それではなぜ、「場」に対して安心感が持てないのでしょうか?
それは「間違えること」が怖いと、無意識に考えているからです。
「間違える」くらいだったら、黙ってやり過ごした方が心は楽だと判断します。
「正解」と「不正解」を基準にしていると、そういうことが自然に起こります。
このことは、普段からジャッジされがちな環境にある教育・職場環境でしばしば起こります。
本人に意見がある・なしに関係なく発生してしまう、反射といっても過言ではありません。
「正解」「不正解」のない場
それでは、その場の前提として「正解」「不正解」を失くしてしまったらどういうことが起こるでしょうか?
それが「哲学カフェ」という場です。
「哲学カフェ」とは、参加者たちが対等で、一切ジャッジされることがないというルールのみで成り立つ対話の場です。
ヨーロッパの路上カフェで、トークテーマについて見知らぬお客さん同士がかわるがわる意見交換をするという文化に由来しています。本来の意味である「哲学」ももともとは古代ギリシャで、カジュアルな「問い」からはじまったと言われています。
たとえば、学校の教室で「哲学カフェ」を行うとします。
扱うテーマは全員が体験したことのある内容がこのましいでしょう。(親・宿題・学校・友達関係など)
子どもたちには、最初にこのように伝えます。
・安心安全の場であるということ
・自分の言葉で話すこと
・誰の言葉もすべて尊重されること。「間違い」ということは存在しないこと。
・「話さない自由」もまた尊重されること
・誰かを傷つける内容は言わないこと
・結論はいらないこと
最初にファシリテーター(先生等)が話します。
すると、誰かがあとに続きます。
最初はあたりさわりのない意見を言う子もいるかもしれません。ところが、徐々に場の雰囲気があたたまってくるや、発言をしたい子たちが手を挙げ始めます。
表現したいのです。
正解・不正解がなく、言わなくていい自由が保障され、攻撃される心配がない―
場に安心が生まれると、人は表現をしたくなる。そこに子どもも大人もないと考えています。